こんにちは、ユカです。
女一人でのイラン旅行記・シーラーズ編その1です。
前編テヘラン編その6はこちらから。
目次
2016.2.19 シーラーズ
おまかせホテル
朝7:00にシーラーズに到着。
バスにカーテンがなく、日が昇ってくると、暑さで目が覚めた。
長距離バスの移動疲れと、シャワーを浴びれていないこと、暑さにも関わらずスカーフを頭に巻かなければいけないことに苛立ちを覚えた。私はスカーフを持っていなくて、黒い毛糸のマフラーをスカーフ代わりにしていて、余計に暑い。
バスターミナルを降りてすぐにタクシーに乗る。
前に誰かのブログで見たシーラーズのおすすめホテルのスクショをカメラロールから探し出し、眠たそうな運転手にここに行ってと伝える。
ゆっくりとした動作でメガネを外し、画面に顔を近づけた彼は首を横に振る。
「そこ、not goodだよ」
ため息が出る。どうして客の行きたい場所に連れて行ってくれないのだ。早くシャワーを浴びたい。
そう面倒に感じると同時に、行き先を告げてすんなりと発進しないタクシーに、テヘランでは感じることのなかった、旅行のワクワク感を味わう。
ちょっと面白くなってきた私は尋ねる。
「じゃあ、どこがgood hotel?」
にっこり笑った運転手がTaller Hotelだと答える。スマホを取り出しホテルのHPを見せてくれる。外観も部屋も綺麗そうだった。
これだけすんなりHPを見せられるって、多分この運転手はホテルと提携しているんだろうな、と予想する。彼が客をホテルに連れてくることでホテルから彼にマージンが入る。
事前にスクショを撮っていたホテルにこだわりがあったわけでもない。彼が提案するTaller Hotelの方が金額も安い。1泊$33。いいよじゃあそこにする、と言うとすぐにタクシーは発進した。
到着したホテルはHPと相違なく綺麗だった。
すぐにシャワーを浴び、ベッドに横になる。
バスで熟睡できなかったこともあり、寝てしまった。
旅に飽きた日
目を覚ましたのは17:00だった。
今日も観光せずに終わってしまうな、と思いながらホテルのレストランへ向かう。外に出ようかとも思ったが、この日は金曜日でどこも開いていなさそうだった。
席に着き、アイスクリームを注文する。
ストロベリー、と言うが伝わらない。発音が悪いのかと思い言い直すが、それでも伝わらない。結局ショーケースまで行って指差しで注文をした。
タクシーでもホテルのフロントでも感じたが、英語がほとんど通じないようだった。テヘランから離れるだけでこうも違うのか、と思う。
毒々しい色のアイスクリームを食べながら旅について考える。
正直なところ、ここ最近、毎日日本に帰りたいと思いながら生きている。
新しい街に行っても、これから行く国々について考えても、今ひとつワクワクしなくなってきている。
日本を発つ前に感じていた、出発の日が待ち遠しい、この国ではこれを食べよう、これを見ようという意欲が一切湧いてこない。
どうすればワクワクを取り戻せるんだろう?
無理に取り戻さなくてもいいのかな。
そうであるなら一旦日本に帰りたい。
惰性で旅行を続けるのは時間もお金も無駄にする。
でも、帰ってどうするというのだろう?
何をすれば時間とお金を無駄にしないと言えるのだろう?
アルバイトをしても時間をお金に換えているだけに感じられるだろう。
学問に精を出すのも考えられない。学びたい対象がない。ない、と言い切れるほど学問の対象を知らないだけだと思うけれど、それを知りたいという気持ちが起きない。
サークル活動は暇つぶしのひとつだった。大学生らしい友達を作って、ちょっとマイナーな共通の趣味を語り合って楽しい時間を過ごす。私にとってはそれ以上でも以下でもなかった。
結局、1年前に日本の大学生をやっていた自分が躊躇なくお金も時間も注ぎ込める、と思った対象が世界一周だったのだ。じゃあ、せめて満足するまでやり切ればいいんじゃないか。
この期間じゃないと行けない国もたくさんある。
あと2年すれば就職して、多分会社員になるだろう。
そうしたらふらっとイランなんていけるのだろうか?
世界地図を見ながら、来月はどこに行こうかな、なんて思案できるのか?
多分日本の会社員である間は難しいだろう。
疲労困憊してくると人の親切がうまく受け取れなくなってくる。それは単純に肉体的疲労なんです。怠惰とか倦怠の90%は肉体的に健康で疲労が取り除かれれば消えてしまう。
ふとこの言葉を思い出して、そんなものなのかな、そうだといいな、と願う。
確かに肉体的に疲れてはいる。きっとそうだ、消耗しているだけだ。元気になればまたあちこち見て回りたい気持ちになるだろう。きちんとしたベッドでたっぷり寝れば大丈夫。自分にそう言い聞かせる。
旅中メイクをしない理由
消極的な旅を続ける理由をあれこれ考えるうちに、後ろから声がかかった。
私と同じか少し年上に見える女性3人組だ。ペルシャ語で全く何を言っているのかはわからないが、立派な一眼レフを抱えた女性がカメラを持って躊躇いがちに尋ねるのが聞き取れた。
「フォト、OK?」
イランに来てから、一緒に写真を撮らないかと声をかけられることが何度かあった。それだけ外国人が、アジア人が珍しいのだろう。
もちろんいいよ、と答え席を立つ。
ひとりと撮ると、嬉しそうに私も私も、と代わる代わる撮る。スター気分だ。嬉しい。
毎回、メイクしとけばよかったなあと思うけれど、毎回しない。
日本ではノーメイクで外出することをほとんどしないのに、海外では丸一日すっぴんで過ごすことが多い。
なぜだろう?
知り合いに会わないからだろうか。私にとって、メイクは顔見知りの「誰か」によく思われたいからなのか?いや、日本ではすっぴんでコンビニに行くのも気が引けた。
コンビニにも化粧をして出かけていたのは、近所に住んでいる女子大生、という社会(店員や近所の人)からの目線があるから?
わりといつもきちんとしている女子大生、を演じたかったのかもしれない。意識はしていなかったけれど、そんな気がする。
海外で旅行者であるとき、私は私に対する責任がまったくない。
ふらっと話してその場を過ごしふらっと消えてゆく。私がどんな顔で何人であろうと、外見についてどう思われようと、私には関係ない。だってこの先たぶん一生会わないんだから。そんな風に思っているのかもしれない。
写真を撮るときにメイクすればよかったと後悔するのは、のちに写真というモノで私が私として残ってしまうから。
そして後悔しつつ、いつまで経ってもメイクをしないで日々を過ごすのは、後から誰にどう思われても、写真を見返される場所は私のいる社会でないとわかっているから。「シーラーズにいたひとりの日本人女」であり、私ではない。そんな風に思っている気がする。
自分に関係ないところにいる自分は自分じゃないなんて、自己中だなあ。
写真を撮りながらぼんやりとそんなことを考える。
英語を喋らない彼女たちも、ジャパンという言葉は知っていた。
日本語でメルシーはなんて言うの?サラームは?など、英語と日本語とペルシャ語とジェスチャーを交えながらなんとか話す。10分ほど話してから、彼女たちは今しがた覚えた日本語で「サヨナラ!」と手を振り去っていった。
アイスクリームは溶けきってしまっていたけれど、部屋に戻ると気分が晴れていることに気が付いた。
旅をしなければ一生話すことのなかった人たちと話せることが今のところの旅の喜びかもな、と思う。 それがそのまま旅をする理由になってもいいんじゃないか。
部屋に戻って、就寝。
金曜日は店が開いていなくて、引き篭もる言い訳になるから好きだ。
この日の発見
テヘランを抜けると英語が通じにくい
目的がないと何事も飽きる
メイクするのは自分のためかも
読んでいただき、ありがとうございました。